Joe Manuelとロカビリー

ジョー・マヌエル(かマニュエルかマニエル)はアラバマの田舎で生まれてアーカンソーに引っ越して10代まで過ごした。家はシェアクロッパー、小作人。10代で家を出て、ショービジネスの世界を目指す。30代前半にアーカンソーの地方ラジオ局に務め、1930年から1935年までの間に、メンフィスのWHBQに移る。1950年まで、メンフィスの人気DJとして活躍した。1940年代にWHBQのオーナーが変わった時に、電波の出力を500ワットから5000ワットに高め、このときにジョーの放送は、毎日午前5時半から6時までの30分の時間帯に移動された。農家の朝は早いわけで、ちょうど朝食を摂ってる時間帯にジョーの放送が聞かれ、そして人気DJになっていったようだ。

ジョーは、ジョージア、ルイジアナ、フロリダ、イリノイ、ケンタッキーから、一日あたり1000通ものファンレターを受け取ったというからどんだけやねんという感じだ。5000ワットという出力がまずもんのすごくて*1、しかも朝早くからやってる番組はそれほどなかった。そんなに人気があるなら企画をやりましょう、という考えは昔も今も変わらない。ジョーの作ったパン屋のCMのジングル「Holsum Bread Boogie」は受けて、Holsum Bread社さんはジョーのバンドをイリノイまで連れて行き、観衆1万1000人の前に立たせたという。

1948年にメンフィスにテレビがやってきて、まあ人気は急速に衰えた*2。ジョーはテレビには移らずに、1950年に番組を降りて、川を渡ったアーカンソーのKWEMに移り、1959年に死ぬまでちょいちょいDJをした。ジョーはジミー・ロジャース(ブルースのほうじゃなくてカントリーのほうね)の大ファンで、ヨーデルも上手だったそうだ。ジョーはナッシュヴィルのGrand Ole Opryみたいな企画をメンフィスでできないもんかなーと考えた。結局これが、「Saturday Night Jamboree」と呼ばれるステージショーとなり、1953年から1954年の2年間、メンフィス中の若手ミュージシャンが集まった。この時の若者がどうだったのか…1953年にはプレスリーがサン・スタジオで自分で金払ってデモを録音している、ということからも分かる通り、まあ多分プレスリーみたいな連中ばっかだったのは想像がつく。困ったときはプレスリーを見れば、大体どんな時期か分かるって寸法だ。

第二次大戦から帰って来た技師たちがあちこちにスタジオを開業していたので、若者が音楽をやる環境は整っていた。そして若者であるために、なにか変わったことをやってみようぜ、ということになる。当時のメンフィスに溢れていた音楽、例えばブルースやゴスペルやカントリーやスイングを、「くっつけてみる実験」をした。それが後にロカビリーと呼ばれるようになったという話である。ああ、ここにも詳しく書いてあるし、面白いや。ただ、「なんかこの時期のこの辺の音楽って妙だよね」ということでロカビリーとして振り返られるのはジョーの死後の話らしい。

このショーは結局施設の所有者の都合と、大方のミュージシャンが音楽で食う道を見つけて出演者がいなくなったため、終わる事になった。終わったら何も残らないかというとそんな事はなく、その後のメンフィスのセッションミュージシャンはこの「土曜の夜のジャンボリー」の道を通った人だっただろうし、メンフィスの音楽ビジネスの底辺を拡大したことは確かだろう。それから言わずとも気がつくことだが、無鉄砲な若者たちが楽器を持って演奏して実験をしていたこの短い期間に起こったことは、実はアメリカ中のそこかしこで起こっていたことなのだ。あくまでも音楽的なクオリティとして、ロカビリーはよくダメを出されるんだが、そんなのオッパッピーですよ、という若いのがいっぱいいたというのは考えると楽しい。ヒッピーカルチャーはその最たるものだが、NYのブーガルーにしろシカゴのハウスにしろ、何かこういう新しい音楽なりカルチャーが立ち上がるところには必ずアホな若者が大勢いるんだってことを改めて思った。

*1:それに周波数が560khzという低い周波数であったため広い地域で聞く事ができたらしい

*2:とは言っても、同局のDewey PhillipsというDJはプレスリーを初めてオンエアした人として知られているわけだし、第一このラジオ局はまだ存在している