Flaco Jimenez#2

Flaco Jimenez#1 - 音楽・脳・アメリカの続き。

エルヴィスの活躍をまぶしく仰ぎ見ながら、ヒメネスは確かにロックンロールの萌芽を感じたことだろう。しかし彼は彼で、プレスリーのバックコーラスのグループ、The Jordanairesとともにレコーディングしたり、ナッシュヴィルでのセッションもこなした。こうして20年間、サンアントニオとテキサス南部でのコンフント音楽にかかわり、パウリノ・ベルナルと共にヒメネスはもっとも貢献した人物と言われている。

コンフントで食えたのかいな、と直感で疑問に思ってしまうあたり、自分も相当情報弱者だと感じる。コンフントに十分な市場があったことは確かなのだ。現在のスペイン語放送のTVネットワークが始まったのは、他でもなくサンアントニオ。テレビがあるなら音楽もある、出演枠もある。1970年のサンアントニオの人口は現在の半分だがそれでも650,000人。現在は6割がヒスパニックだというから、5割と計算しても30万人がいたことになる。

んで、まあインタビュー見ると、フラーコは1973年にダグ・サームのアルバム『ダグ・サーム・アンド・バンド』に参加して、カーッと刮目したようだ。そのすぐ後にライ・クーダーと会う。歴史というのは相対的に見て初めてそれとして見ることができるわけで、ここでフラーコは祖父の代から受け継いできたコンフント音楽の位置づけというのをきっと深く理解したのだろう。コンフント音楽は決してメジャーから出ることはなく、完全にローカルなレーベルだった。同じアコーディオンを弾くザディコのクリフトン・シェニエでもチェスやアーフーリーで出してたんだから、ちょっとくらい触手を伸ばしてもいいとは思うんだが、そうはいかなかったらしい。

そんなこんなでフラーコはジャズやらロックンロールやらのリフを弾き始め、英語でも歌い始めた。70年代中期にはストーンズの『Voodoo Lounge』の中の「Sweethearts Together」に参加する。その後もまあめんどくさいから書かないがいろいろなアーティストの作品に参加して、要するにテキサス・トルネードスを含めて5つもグラミー賞を取ってんだからよく分かるでしょーっていう話。YouTubeではダグの息子のバンドと一緒にやってんのがあるね。

見た元記事が、なんか全体的にとても謙虚なインタビューで、すかされた。ただ、ノルテーニョと呼ばれる米国国境付近のメキシコ音楽は、50年代に隆盛を極めたメキシコ音楽から見ても亜流っちゃー亜流で、竹村淳さんみたいなラテン音楽を愛する人にとっても、なんだか脇に追いやられているような印象を受ける。今するっと「亜流」と書いたが、確かに地理的にもサンアントニオはメキシコの「北の果て」に位置するのだが、さて国境というよく分からんものを越えて、音楽そのものと、人々の音楽への眼差しが、どう変わっていったのかということはとても興味がある。フレディ・フェンダーやフラーコが売れた60年代、70年代を通過して、21世紀の現在ではチカーノラップも非常に高いクオリティになっているっつー話であって、そうなったのは当然公民権運動を通過してチカーノが主張を始めたことに関係するのだが、ではフレディやフラーコが保守的であったかどうかと言われると、決してそんなことはないと思う。リフからリズムから声から演奏法から、小さな改革の連続だったに違いない。そしてそれらが、結果的にサンアントニオというコミュニティの味付けになったんじゃなかろうかなんて思うわけで。