ダグ・サームを追う#3

ダグ・サームを追う#2 - 音楽・脳・アメリカの続き。

ダグ・サームはドリー・ファンク・ジュニアと同い年の1941年生まれということを書いた。ドリーの弟テリー・ファンクは3歳下の1944年生まれ。1965年、21歳でプロデビューしている。大学に行った兄とは異なり、プロレスの英才教育を受けてデビューしたということになる。

例えば1965年のテリー・ファンクと恋人の会話。

テリー「キャサリン、やったぜ。俺はやっとプロデビューが決まったよ!」
キャサリン「まあテリー、おめでとう。」
テリー「ところでキャサリン、キミのビートルズ好きはどうかしてるよ。俺のデビューをきっかけにいい加減ファンを辞めたらどうだい?」
キャサリン「なんてこと言うのテリー。私はとっくにビートルズ熱は冷めてるの。いま最高なのは、Sir Douglas Quintetよ!キャーダグラス様〜!」
テリー「まったく…そんな弱々しい英国人たちよりもテキサス人の方が強いに決まってるだろ?」
キャサリン「あら、テリー、なにを言ってるの?ダグラス様は私達と同じテキサス人よ。しかもサンアントニオ出身なの」
テリー「うそだろ?テキサスの男はこんなマッシュルームカットをするわけないじゃないか!」
キャサリン「テリー、それはもう時代遅れなのよ。あなたのお父さんやお兄さんはどこから見てもテキサス人だけど、あなたはもっと変わったことしなきゃだめよ、ちょうどこのダグラス様のように!」

…とまあ、大方こんな感じだったのかな。ありもしないことを考えるのは楽しいでつね。テリー・ファンクのファイトスタイルに影響したかどうかは知らね。


ダグは10代の頃から音楽の才能を発揮して、地元の黒人専門クラブにも出演するほどになっていた。「それはヤンキースと契約するくらいの事だった」と本人は振り返っている。グランド・オール・オプリでのレギュラー出演をオファーされたが、お母さんが「中学だけはまともに出なさい」という方針だったために断ったらしい。はっきり言ってグランド・オール・オプリにオファーされるとなると、これは「天才ちびっ子現れる!」レベルではないと無理だろう。なにが具体的にどうすごかったのか、ちょっと想像がつかないのだが…。ともかくも自分のバンドでローカルヒットも飛ばしていたらしい。San Antonio Rockに収録されている作品群がその時期にあたる。

10代の頃の話で逃せないのは、1958年か1959年にはフレディ・フェンダーと会っている。「会っている」というより、スターとなったフレディのバックバンドを務めるなどしていた。このことはつまり、普通のハイスクールの音楽が趣味の学生とはまったく立場が異なるということだ。フレディとステージを共にしたということは、その他のテキサスにやってくる全国的なスターともサーキットを回ったことになるはず。

1964年、ダグ・サームが23歳の時に、オーギー・メイヤーズのバンドと共に、Dave Clark Fiveというイギリスのバンドの前座を務めた。YouTubeの動画は彼らのアメリカ初上陸時のクリップなんだが、きっとこの時にテキサス方面もツアーしたんだろう。

このブリティッシュ・インベージョンの波の中で、ダグ・サームの類い稀な才能に目をつけたのがヒューイ・P・モー、別名「Crazy Cajun」、狂ったケイジャン。とほほ、こっちの方がプロレスっぽい。ヒューイはこいつら糞イギリス人がヒットしてるのを見て、サンアントニオのホテルの部屋に閉じこもって、安酒のサンダーバード・ワインを飲みながらありとあらゆるビートルズのレコードを聞きまくった。そして出した結論が、これ。「The beat was on the beat, just like a Cajun two-step」だもんなあ。相当いかれてるっちゃーいかれてる。しかし真理と言えば真理。こういう話のディテールがたまらなく好きです。

ヒューイはすぐにダグを呼び出して、バンドメンバーを全員長髪にさせた。そしてCajun two-stepの曲をダグのバンドのために書いた。ダグはすぐにオーギーのバンドと自分のバンドからメンバーを構成した。バンド名はイギリス風に「サー・ダグラス・クインテット」として、1965年1月14日、「She's About A Mover」を録音し、満を持してデビューした、というわけ。この曲は、もちろん、ビートルズのヒット曲「She's a Woman」のパクリというかなんというか。これが売れた。全米チャート最高13位。なんというか世の中全体が、サンダーバード・ワインみたいな安酒で酔っぱらっていたような気がする。

ダグ・サームを追う#3.5 - 音楽・脳・アメリカに続く。