ダグ・サームを追う#3.5

ダグ・サームを追う#3 - 音楽・脳・アメリカの続き。

ヒューイ・モーの仕掛けと相俟って、一躍全国的な人気者になったダグラス卿。ここでまた覚えて損はないのが、1965年にアラバマ州セルマからモンゴメリーへ行進したという事件。史跡めぐり・アラバマ州の選挙権獲得をめざす大行進に詳しく書いてあるのだが、ここで言いたいのは公民権運動ではない。この年に、ダグラス卿ははるばるサンアントニオから、Little Richardと共に全国ツアーして、昼飯食うのに警察がエスコートしたんだよなっはっは、なんて話がライナーノーツに書いてあった。人種的な緊張というのは、特に南部ではかなり厳しいものがあったはずなのだが、特にサンアントニオなんつーテキサスの一都市においてはそれほどでもなかったために、このギャップは強烈だったのだろう。

話を先に進めると、マリファナ所持でコーパスクリスティの空港で捕まった後に、カリフォルニアへと向かうんだわなあ。ダグは「長髪野郎はテキサスでは生きにくかった」と言ってる。いやホントにね、話を先に進めたいんだけど、「この時期にカリフォルニアに向かった」という事実がかなり自分の中で重要で、結構脇道に逸れかねない要素がたくさんある。ヒッピームーヴメントもそうだし、ドクタージョンもこの時期にはるばるカリフォルニア入りしてるし、スタインベックの『怒りの葡萄』からはこの時点で40年近く時が経ってるにしても、農業も石油産業も一度死んだものはなかなか生き返らないテキサスから見たカリフォルニアってどんな町だったのかと考えたり、それを言うならもう一世代前の、シカゴブルースを創ったアフリカ系アメリカ人が北部にじゃんじゃか移動した話にも関連するだろうし、あるいはこの時オーギーやフラーコはメヒカーノのコミュニティにあってロックの揺籃をどう見ていたのかとか、またはビートルズのサウンドを「ケイジャンのツー・ステップ」のように解釈した例の狂ったケイジャン、ヒューイ・モーの視点にしてもそうだ。

この時期のカリフォルニアって、アシッド・テストじゃないけれど、アメリカ南部(やUKやジャマイカやメキシコやインドその他いろいろ)のあらゆるヴィジョンが同時に露呈したような、なにかよく分からないことが多分リアルタイムで起こっていたんだろう。とはいえ、これらヒッピー文化を総括したような文献やサイトを見ても、思ったほどではねえなという感想に至ってしまう。なんか「バカじゃん?」という感想の方がしっくり来るかな…まあバカにしているわけじゃないんだが、結局そういう総括自体が難しいムーヴメントだったんじゃないかなと思うのだ。なにしろムーヴメントの核になる人々の頭がパッパラパーなんだから、捕らえようがないだろ。

まあとにかく、そういうわけで、1966年3月、ダグ・サームはカリフォルニアへ向かった。こういう風に、たったの一行で済むところなのだよね本来は。

ダグ・サームを追う#4 - 音楽・脳・アメリカに続く。