ダグ・サームを追う#4

ダグ・サームを追う#3.5 - 音楽・脳・アメリカの続き。

カリフォルニアにいた時期のダグ・サームのアルバムは今聞くとどれも素晴らしい。商業的な成功という意味では、シングル「Mendocino」がちょい売れした程度で、1971年にはSDQは解散(というか休眠)してしまった。この時期に、カントリーロックのAlvin Crow(1950年オクラホマ州生まれ)と交流があり、ダグはちょくちょくスティールギターを演奏していた。この時の名前がウェイン・ダグラス、またはダグがメキシコ名を欲しがっていたために、ダグ・サルダーニャという名前だった。ダグはカリフォルニアからテキサス州オースティンへと戻リ、大御所ウィリー・ネルソン、若手ジェリー・ジェフ・ウォーカーが牽引する「コズミック・カウボーイ」シーンの中に戻ったという。おお、ジェリー・ジェフ・ウォーカー。ジェリー・ジェフ・ウォーカーね(2回言うのかよ)。「Mr. Bojangles」の作者。この時代ではなかなか興味をそそられるシンガーです。

さて、1973年、アトランティック・レコーズのJerry Wexler(超大物です)が、ダグ・サームの契約を買い取り、長年の友人でもあるボブ・ディランドクター・ジョン、フラーコ・ヒメネスとのコラボレーションで「ダグ・サーム・アンド・バンド」をプロデュースする。この時吹き込んだ「Is Anybody Going to San Antone?」は、チャーリー・プライドが1970年にヒットさせた曲。ボブとダグが、「とりあえず何からやる?」「じゃあアレやってみようぜ」みたいな感じで話していたかのような、気楽な感じのセッションの雰囲気を感じてしまう。

その後もアトランティックで、一連のアルバムをリリースする。1980年代始めまで、ダグもメイヤーズも異なるレーベルで作品を出し続けたが、まあまあ、大した売れなかったらしい。この時期ダグは、1972年に「Cisco Pike」(この動画をアップしてんのはダグの息子じゃん…)、1979年に「More American Graffiti」の二本の映画にも出演。彼の曲「Michoacán」(太平洋岸のメキシコの州名でマリファナの別名)とボ・ディドリーのカバー曲「I'm A Man」がそれぞれのサウンドトラックで使用された。

1983年、サームとメイヤーズはスウェーデンのレーベルにサインし、欧州でのツアーを展開した。シングル曲「Meet Me In Stockholm」はプラチナヒットを記録して、スカンジナビアで史上最高のヒット曲となったそうな。はアップ主が歌ってるようつべ動画。ああ、これは確かにいい歌だね、分かります。分かります。

1985年、ダグ・サームは北米に戻り、カナダでAmos Garrettとバンドを組む。1988年にテキサスに戻り、Clifford Antoneの自主レーベルで録音。アントンズと言ったらテキサス州オースティンの有名クラブなんだが、そうか、彼のサーキットならたんまり儲けられそうだな。この同年、覆面バンドTraveling Wilburysのテクス・メクス版のバンドを、アリスタ・テキサスのレーベルのCameron Randleと話したアイデアが、後のテキサス・トルネードスへと繋がる。1989年にフレディ・フェンダー、フラーコ・ヒメネス、オーギー・メイヤーズで結成されたテキサス・トルネードスは、当たった。1991年にはグラミーも取った。90年代はこのトルネードスの活動で大忙しだったことだろう。

しかしその間にも、1994年、息子のショーンとシャンドンと共に「Day Dreaming At Midnight」を、翌年は「The Last Great Texas Blues Band」を出す。1999年、Tornado Recordsを創立。2000年にはヨーロッパのツアーが予定されていたのだが、ああ、1999年11月18日、ニューメキシコ州タオスで永眠。心臓発作だったという。

といったところで、とりあえずダグ・サームで話を引っ張るのもお開きにしときます。先は長い。