Can I change my mind

Reggae musicは、かれこれ50年近くも、ジャマイカ以外のほとんどすべてのミュージシャンや音楽関係者にとって、素晴らしい知見となりえてきた。それを正確に理解しているかどうかはともかくとして、ある意味ミュージシャンたちの拠って立つ音楽の根幹に、まったく異なる問いを投げかけるほどの音楽であったに違いないことは想像できる。

ととと。えらく大上段に構えてしまう。別になんの話から初めてもいいんだわ、ジョー山中でも中上健次でもストーンズでも。ただ、精神世界的な話は勘弁して欲しいっす。振り返ればマーカス・ガーヴェイの誇大妄想的な振る舞いは全部アレ大麻だったんだろうなあって気さえする。それを肯定も否定もしないけど、つまるところガンジャ吸って内省的になって演奏すれば演奏者は音と純粋に対峙することになるだろうし、それを神と言うなら言えばよい。際立っている点とは、合衆国の黒人が音楽を演奏する場面のシステムや社会性とジャマイカでのそれはまったく異なっているという事実だけだ。貧困なんてのは程度の差で、ジャマイカを擁護してミシシッピを否定する馬鹿者なんていたら恥ずかしい。まあいいや、とにかくこの時点では、ジャマイカ音楽ってのはアメリカ合衆国の音楽の一亜流という態度でもって見た方が、結構公平じゃないかなという気がする。この場合に並立させて考える音楽としてイメージしてるのはザディコとかなんだけど。

そんで公平に見た上で、やっぱりどうもジャマイカには確かに天才がいるらしいっていうことが伝わってくるのが、まずはLee Perryの手によるボブの「African Herbsman」あたりになってくる。

African Herbsman

この盤の音作りについては長い間まったく理解できなかった。おかしいのだ。もちろん頭が。しかしこの音でなければならなかったのだ、当時のLee Perryにとっては。ガンジャを吸って髪をドレッドにする、ドレッドというのはJah Lionすなわち神様の髪型で、ライオンすなわち百獣の王であって、そうすることでI and IすなわちJahと自分は同一のものとなり、この音を作るLee Perryは神そのものなんだから、白人に利益をもたらすような音楽産業そのものに対して異議を唱えるのは当たり前のことであって、大衆に迎合することなんて微塵も考えていない、というか大衆迎合なんてとっくに超越していて、この音で彼が起こそうとしているのはエクソダスであり奇跡であり、みたいな話を瞬時に一息に論理的につなげられるっていうのがこれ大麻の効用なんでしょうね。

それだけのインパクトのある盤で、調べるといろいろと問題のある盤であって、これ以降のウェイラーズのどの盤よりも重要だと思っております。いやあ、だからReggaeは困るんだ。何について書いているのか分からなくなってくるんだわ。

少し話を戻しましょう。ジャマイカに天才がどうもいるらしいって話は、既にボブ以前に知られていた。1968年、Tyron Davisというミシシッピ生まれのソウルメンがものごっついヒット曲「Can I Change My Mind」をリリース、全国的にヒットした。

んで、そのヒット曲を1969年にカバーしたのがAlton Ellis、と書くとそれで終わっちゃうんだが、このカバー曲の、ミュージシャンたちの技量とセンスについて一時間ぐらい問いたいわけで。間違いなく普通にこんな発想は生まれて来ないと思う。

なおかつ恐ろしいことに、この曲はJackie Mittoのインストとしてもカバーされている。

ここまで聞くに至って、ジャマイカは恐ろしい場所であると身震いしてしまう。振り返ってTyron Davisの原曲をもう一度聞くと、なんでこの曲がそうなったのかという人間の知覚の過程について思いを巡らせてしまう。ここですごいのはジャマイカンというより、人間なのだという結論。人間万歳。