「音楽」と「音楽ビジネス」

なんかヒューイ・モーみたいな人のことを書くと、すべての「音楽」と「音楽ビジネス」は表裏一体なんだよな、ということを改めて実感させられる。それは悲観的というか否定的な意味ではない。プロレスを知っているか、知らなくても映画『Beyond The Mat』を見たことのある人なら分かるだろう。興行ビジネスの中で演者は生きているのだが、演者そのものは突き詰めたら人間である。これは産業社会が発生して以降の労働運動にも似たところがあるのかもしれないが、突き詰めれば人間であるからには、ビジネスの歯車ではないギリギリの部分(あるいはほとんどすべて)を人間は有しているのであって、だから人間とは誇らしいのだよ。民主主義はそういう基本的人権を教えて来たではないか。だからチベット解放しろよ、硫化水素なんかで自殺すんなよ、という話にも広がってくる。

この演奏者とビジネスの関係の話を考える時には、「ビジネスとしての音楽」が発生したのはいつかという発生論をまず単純に考える。著作権ができる前、レコードができる前、楽譜が売買される前、うーん、果てしなくさかのぼると一体どこに行き着くんだろう。いや楽譜なんてなくても、人前で演奏して金を取るならそれはビジネスだ。逆に考えたら、金を取らないで演奏者はどうやって生活するというのか。とかなんとか考えて、とりあえずの結論としては、音楽を独占的に演奏する人が出た時に音楽ビジネスは成立した、と思っている。あれれ、あんまりプロレスは関係なかったですね。

とにかく言いたいのは、人間の器官、口や手足が発生する歌や音楽を「私物化するなんてとんでもないわよ!」みたいな理想論なんてこれっぽっちも通用しないということだ。「ソウルミュージック」なんて正味の話、本来の魂とはあんまり関係ない(かもしれない)。あんなもん札束にしか見えてない人もいただろう。ではゴスペルってのはどうなんだ。単純な話、あれも宗教の道具であったと解釈さえできる。いやあそれは強引すぎるか。

でも、宗教儀式と音楽の関係が密接だった事実を考えたら、古来から演奏者がシャーマンなり聖職者であったことは想像できる。「神が降りて来る」ことは宗教では頻繁にあっただろう。2006年のM-1決勝時のチュートリアルのチリンチリンのネタは笑いの神が降りていた。僕はあれを、演者も、そして観客も、極限まで集中した結果だったのではないのかな、なんて考えている。トランスですよねひとつの。そう考えると、よかったライブ演奏、または名盤と言われるライブ盤は、決まって観客も集中しているんだと思う。意識の共振とか共鳴とか、いやちょ〜っと妖しい言葉ではあるけれども、実際に現場ではそういうことが起こっているに違いない。

とするとですよ。そういう共鳴ができるのはまさに人間しかいないわけで、ビジネスの歯車には不可能なのです。この神が降りて来る状態を作るのがアーティストなんであって、これだけは古来からシャーマンとまったく変わらない。あんまり神を降ろすもんだから、麻薬に溺れたり自殺したり気が触れたりっていうアーティストも少なくない。それでもアーティストたる者の矜持…いやこれはもしかしたら人間の「業」なのかも知れないが、なぜか毎回神を降ろそうとする。そして神が降りようがウンコが降りようが、金になるならそれでいいってのがビジネス。ここまで書いて、ようやく「音楽」と「音楽ビジネス」の間に決定的な差があることが判明するわけです。ホッとした。

しかしながら、音楽をビジネスにするのは悪だとする観点には同意できない。なぜなら、ここまで音楽が豊かに成熟したのは、ともかく音楽ビジネスのおかげだからである。感謝感謝。