Freddy Fender

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暖かくなってきましたね。

うっすらとまた燃料(CD)を仕入れに渋谷のタワレコ行ったもんで、いろいろナニがいいカニがいいと他人の話に聞いていた新譜をあれこれ試聴機で聞きつつ、下から上まで死亡遊戯をしていたのだが、なんかねえどうも最近CDが高い。売れるのは安くて売れないのは高いっていうのは当然だろうけど、今時CD一枚4500円なんてのもあったりするからたまげる。最も安い売れ筋の輸入盤で1500円くらいだからその3倍か。なんつーのかねえクラッシュがロンドンコーリングを2枚組にした逸話みたいな心意気ってのがあるんだかないんだか、それともただの船賃とかの経費が上乗せされてるだけなのか、最近の自分の趣味のせいで高いCDばかりにぶち当たってんのか、そもそもこんなんだからタワレコ潰れたりしてんだろっつーの、とか悪態を付きつつも、Freddy Fenderポルトガル製3枚組のBOXが1500円程度だったのを発見して喜んで買ってしまった。曲単価を計算すると、42曲だから1曲32円ほどか。価格破壊っぷりに泣けた。

それにしてもよいですなあFreddy Fender。美声ベスト5に入るわー。そしていかにテキサストルネードスがオールスターバンドであったかっつーことですわ。

テキサスはアメリカ合衆国というよりはテキサスという国なのであって、かつてのテキサス共和国であり、その後の米墨戦争の舞台であり、現在の不法移民の現場である。おなじみの音楽市場によって印象づけられたテキサスのイメージ、カントリー・アンド・「ウエスタン」やテックス・メックスといった言葉とは裏腹に、実際に流通している音楽により近いもの、それがフレディ・フェンダーのド演歌なんだろう。この人のことははっきりと本当に華やかなロックンロールのスターと言うべきだ。テックスメックスだとかティアドロップバラードだとか、言いたいように呼ばれてはいるけれども、どう解釈しようとも結局は革命的なロックンロールのひとつであると言える。

僕はこの人がスペイン語と英語を織り交ぜて歌う時の座標軸にとても興味がある。それはフラーコもダグ・サームも一緒なんだが、アメリカの歌、メキシコの歌、すなわちテキサスの歌を彼らが歌う時に、ああ確かに彼らの音楽にはテキサスの空気を感じられて、録音されたものには魔力めいたものが感じられる。テキサスを愛しているか、とは、フレディ・フェンダーを愛しているか、と同義なのではなかろうか。身が千切れるような思い、あるいは空でも飛んでるかのような高揚した気持ちを歌に込めて、そうして癌で死んじゃったんだよなあこの人は。


以下、wikipedia:en:Freddy Fenderの抄訳を織り交ぜつつ。

Freddy Fenderは、ギリギリアメリカ合衆国というくらい南の国境の町、テキサス州サンベニトで1937年6月4日に生まれた。面構えからまあそうだと思ったんだが、メキシコ系アメリカ人、本名はBaldemar Huerta。ソロアーティストとしての他にも、Los Super SevenやTexas Tornadosでも活躍した。1975年のヒット曲「Before the Next Teardrop Falls」で有名。別名は「El Bebop Kid」。

少年時代、フェンダーの一家はサーカスの一団としてアメリカ合衆国中を旅した。5歳の時、空き缶とワイヤーで作ったギターを弾き、10歳の時にテキサス州ハーリンゲンにあるKGBS-AMのラジオ番組に出て歌い賞品をもらったという。16歳の時、フェンダーは学校を辞めて海兵隊に3年間務める。その後はテキサスに戻り、南部一帯のナイトクラブやホンキートンク(安酒場)で、主にメキシコ系の観客の前で演奏した。1957年、20歳の時、プレスリーの「Don't Be Cruel」とハリー・ベラフォンテの「Jamaica Farewell」のスペイン語バージョンをリリースしたがセールス的には今ひとつ。1958年には、本名のBaldemar Huertaからフレディ・フェンダーに改名。フェンダーのアンプからその名前を取った。その後21歳でカリフォルニアへ向かった。

1959年、22歳の時、「Wasted Days and Wasted Nights」を録音してヒットする。しかし彼とバンドのメンバーは1960年5月にルイジアナバトンルージュマリファナの不法所持で逮捕された。悪名高いルイジアナ州のアンゴラ刑務所にぶち込まれ、3年後に釈放された。

その後1960年代は、テキサスで警備員として働きながら週末だけ演奏するという生活をしていた。暗黒の20代、30代というわけだ。生まれながらのスターかと思っていたが、意外と遅咲きの苦労人だったわけか。まさに「無駄な日々」を送ったとも言える。

1974年、37歳の時、「Before The Next Teardrop Falls」を録音する。これが全国的なシングルヒットとなり、ビルボードのカントリーとポップチャートでナンバーワンを記録する。その後の3枚のシングル、「Secret Love」「You'll Lose A Good Thing」、そしてリメイクした「Wasted Days and Wasted Nights」はいずれもカントリーチャートで一位を記録。1975年から1983年まで、全部で21曲のカントリーおよびポップのヒットを飛ばした。1978年のアルバム『SWAMP GOLD』に象徴されているように、フェンダーの歌う曲調は、ルイジアナ南部とテキサス州南東部で広く親しまれた、いわゆるスワンプ・ポップに大きく影響を及ぼされた。Joe BarryやRod Bernardといったスワンプ・ポップのミュージシャンとよく絡み、スワンプポップを売り出していたケイジャンのプロモーター、Huey Meauxが所有していたレーベルで多くの録音物を残した。

1989年、52歳の時に、フェンダーはダグ・サーム、フラーコ・ヒメネス、オーギー・メイヤーズと共に、テハーノのスーパーグループ、テキサス・トルネードスを結成する。このバンドは4枚のアルバムをリリースし、1990年には「Soy de San Luis」の曲で、グラミー賞の「Best Mexican American Performance」を受賞した。1999年のダグ・サームの死後、トルネードスの活動は休止した。

1990年代後半、60代に突入してからは、フェンダーはもうひとつのスーパーグループ、ロス・スーパー・セブン(Los Super Seven)を組む。メンバーはロス・ロボスのDavid HidalgoとCesar Rosas、フラーコ、ジョー・エリー、それからカントリー歌手のRick Trevino。このバンドは1998年にグラミー賞を受賞している。

2001年、フェンダーは最後のスタジオ録音となるアルバム「La Música de Baldemar Huerta」を作った。メキシコのボレロのクラシックばかりを集めたこの作品で、彼は三つ目のグラミー賞(この時はラテンポップアルバム部門)を受賞した。

2002年、フェンダーは娘から腎臓と肝臓の移植を受けた。それでも彼の肺腫瘍の病状は悪化し続け、不治の癌であった。2006年10月14日、テキサス州コーパスクリスティで69歳で死去した。2007年11月17日、彼の故郷サンベニトに、フレディ・フェンダー博物館とコンフント・ミュージック博物館がオープンしたそうなんだが、どんな内容なのかはさっぱり分からん。