花のカリフォルニア

例えば日本の話。かつて「ジャズ喫茶」が隆盛を誇った時代があったのだという。その後、ジャズ喫茶どころかジャズも喫茶も廃れていく。具体的に廃れていくとはどういうことを表現しているかというと、中心から周縁部分へと押しやられる、魅力がなくなる、絶対数が少なくなる、古い、臭い、キモイ…まあなんでもいいんだが、価値観自体が受け入れられなくなる、とまあ散々な目に合っているということ。世の中が移ろいでいくことは当たり前、ボブ・ディランも当時から「The Times They Are A-Changin'」と言ってるわけで、まあこんな話どうでもいいっていう態度が一番正しいと思う。

今日、60年代の花のカリフォルニア、ヒッピームーヴメントを振り返ってみたいと思って、いろいろネットで見ていたんだが、直感的な感想としては、やっぱり「そんなもん総括しても意味ないやんけ」ということなのだ。自己弁護というかアイデンティティの補強というのか、どうもジャズ喫茶と同じニオイを感じるのは、どちらも団塊世代のアイテムだからだろうか。ロックの歴史を考察してみたり、「ロックは死んだ」とか言ってみたり、それに関連して「あの頃は〜」と振り返ったりするのは、参考にはなるという程度で、結局は「一体あの時何が西海岸で起こったのか」という問いに戻る。つまり問いは問いでしかない、みたいな。答えは「Blowin' In The Wind」みたいな。いくら後から追っても突き詰めたら把握できることはごくわずかな全体像だけで、個々のミュージシャンに起こっていた偶発的で具体的な衝動みたいなものは、録音された盤から推定するくらいしかできない、と思った。なんか哲学みたいな話になってきた。

いずれにしても、このヒッピー文化を起点とするようなポピュラー音楽史観はクソ以下だと断言したい。確かに「グレイトフル・デッド」を振り返るならそうなるかもしれないが、ムーヴメントの正体は本当はもっと市場原理に則したレコード産業ありきだと思うし、その点ではミンストレル・ショーやティンパン・アレーの時代から、一貫してこの世界はShow by 商売であったと思うのだ。だから、ジャズ喫茶が存在したのは「ジャズ喫茶が儲かったから」という結論に至ると思うんだよねー。