ツラツラと

●西海岸のヒッピームーブメントをロックの起点にする考え方に違和感を覚えるのは、それがビートルズ旋風と同様に「終わってみたらどうでもいいこと」に思えるからだ。時代の空気感に合った歌が存在し、それぞれのブームには仕掛けている側が存在し、そして、その次にようやく才能のあるミュージシャンが出て来るという順番は納得。プレスリーに例えて言うなら、彼の才能は唯一無二なものであることは確かだが、もしそれがプレスリーではなくて他の人だったとしても、音楽の歴史の軸はさほどぶれないはずだ、とここまでは理解している。でも、どうでもよくないことも、音楽の歴史の軸をぶらすような重要な人物も技術も、あるはずだという期待だけは持ってしまう。ジミヘンにエフェクターは欠かせないし、ダンスホールレゲエにはカシオトーンが欠かせない。でももしそれらが無かったにしても、多分別のやり方で同様のカタルシスを創造していたのではないか。

●ロマックス以降ディランと同世代までのフォークやブルーグラスが最近アメリカーナという名前で一緒くたに呼ばれて定着しているのも、相変わらず売り続けるための仕掛けだということがよく分かる。こうやって再評価されることでCD化されるのは喜ばしい。だがCD全体の売り上げが落ちているために、三河商人の言う「売り手よし、買い手よし、世間よし」の三方よしになるのかどうかは分からない。

●ロマックスの仕事は確かに偉大だけど、ロマックスと真逆のことをやっていた軽薄な音楽商人だって偉大じゃないかと思う。ロカビリー、ブーガルー、ロックステディ、テハーノといった、ロックやソウルのフォーマットにエスニシティを近づけていった時期をどう捉えようか。

●つまりパフ・ダディこそが、実は相当偉大な人じゃないのかな。