テキサスのレコード産業(戦前)

テキサス州サンアントニオ、州南西部の特に50年代から70年代くらいまでの音楽シーン自体は非常に謎めいていて、コンピCDでちょくちょく入手できるくらいで、チカーノのソウルにしてもコンフント・デ・ノルテ(でいいのかな?ノルテーニョ?)にしても、「見つけたら即買い」と思って間違いないほど自分の趣味に合っているとは確信しているんだが、なかなかね…その辺はね。いろんな方がいろんな情報をサイトにアップしてるんだけど、そのマニア度に正直クラクラ来てる。ハマったら最後、という文字が透けて見える(笑)。だからまあそれは置いといて。「テキサスのレコード産業」の概観についてテキストがあったんでだらしなく訳しつつ書いてみたい。

テキサスは、レコード産業にとっては長らくポピュラー音楽不毛の地で、ニューヨーク、ロサンゼルス、ナッシュヴィルという大都市に比べたら明らかに牛の糞であった。1920年代、30年代になると「カウボーイ」「ヒルビリー」「エスニックケイジャンとかメキシコとか)」の売り上げにようやく目が向けられるようになった。その当時まで、ポピュラー音楽というのは下世話な連中しか聞かないからどうせ売れない、とレコード会社は思っていたようだ。

1893年、エジソンの技師チームが初めてテキサス州サンアントニオのホテルで「Los Pastores」というバンドの録音をした。この一銭の金にもならない、フィールドワークと録音の実験を兼ねたレコーディングの時期に出て来る偉人といったら、John Lomaxという音楽学者をおいて他にはいないんじゃなかろうか。1930年代にアンゴラ刑務所であのレッドベリーを発見した人として有名だが、アメリカ全土の細かいエスニックな音楽を録り続けた功績はホントに素晴らしいと思うし、正直そんな仕事でうらやましいわーホント。テキサスでも自動車でありとあらゆる町や牧場や刑務所を回って録ったという。母校のテキサス大学がその資金を提供していたんだが、彼の「カウボーイ」音楽の研究はまったく無価値と思われていたらしい。しかしね、ホント、この時代に純粋に商売っ気のない音楽に目を向けた精神は素晴らしい。息子のアランも同じく研究家、ここにあるように、最後にはアメリカを飛び出してカリブ海へ行き、さらにはルーツをたどってヨーロッパにも行ったっつーのかすげえなあ。Alan Lomax: Blues Song Bookとかが入手しやすそう。他にも同様のフィールドワーカーの名前が挙がってて、William Owens、J. Frank Dobie、John Rosser Jr.、John Henry Faulk、Hermes Nyeなど。さらに年代はずいぶん下って、1960年代初めにご存知Arhoolie RecordsのChris Strachwitzがカリフォルニアからテキサスにやってきて、Lightnin' HopkinsやMance Lipscombといった埋もれていたブルースマンを発掘した。この辺の録音屋さんの仕事があったおかげで、フォークリバイバルのブームやボブ・ディランへと繋がっていくっていう流れですな。いやはや。俺は知らないことが大杉。

さて、1920年代から30年代のテキサスでのレコーディングは、ホテルや教会、食堂、ラジオ局といった場所を借りて行われていた。人種分離のために商業的な場所での録音にはトラブルもあったり、教会はいつも貸してくれるわけではなかったし、20以上のトランクに録音機材を入れて移動したという。それからテキサスは暑いんで、機材が熱でダメになっちゃうので夏の録音は極力避けた。当然エアコンもないから部屋も暑いわけで、そうなると演奏自体がヤッツケになることもそりゃあっただろう。だからこの辺の戦前の音は、いいか悪いかっていうよりは「ありがたい」と思って聞いたほうがいいかもしんない。ていうか、T-Boneもテキサスで録ったのは一度きりで後はシカゴなど他の都市にいったようだ。