Flaco Jimenez#1

Flaco Jimenez
相変わらずダラ訳しか脳がないんだが、これも好きこそもののなんとやらというわけで。今回はフラーコについて。ソースはFlaco Jimenez: The RootsWorld Interview 他です。

ホンキートンクが白人の庶民、ザディコが黒人の庶民、コンフントはテクスメクス文化の庶民の音楽であった。フラーコ・ヒメネスの祖父のパトリシオ・ヒメネスはダイアトニックのボタン式アコーディオンと12弦のメキシカンギター、バホセストを使った、「ノルテーニョ」として知られるコンフント音楽の原型を演奏した。コンフントとノルテーニョの違いはほとんどなく、サンアントニオ在住か否かぐらいの差。19世紀にメキシコ北東部に移住したドイツ系移民のもたらしたポルカやワルツに影響を受けた音楽。

フラーコの父親のサンティアゴヒメネス・シニアは、1936年位デッカからレコードを出した。「Dices Pescao」と「Dispensa el Arrempujon」、どちらも地元では有名なポルカのヒットとなる。フラーコが最初に始めた楽器はバホセストで、7歳から演奏をしたが、父親を見てアコーディオンに持ち替えた。ハンク・ウィリアムスのようなカントリー音楽、祖父と父親に引き継がれたアコーディオンの音に囲まれて成長した。

それから、フラーコの最初のアイドルはクリフトン・シェニエだったという。1939年生まれのフラーコが見たクリフトン・シェニエは、アコーディオン奏者の目線で見るなら、冗談抜きで超かっこよかったはずだ。またレコード店の棚のトラップなんだが、ザディコの棚に置いているだけでクリフトン・シェニエをなにかエスニックなアーティストのように思ってしまうが、クリフトン・シェニエは圧倒的にデルタ・ブルースを押し進め、ファンクネスの原型を取り入れた革命児だった。

フラーコ・ヒメネスは1955年、16歳でLos Caporalesというバンドを組み、サンアントニオテクスメクスの人気バンドとなる。地元のスペイン語放送のテレビ局の番組にレギュラー出演した。この頃、同じティーンエイジャーのプレスリーも、メンフィスのサン・レコーズで録音していた。ダグ・サームはまだバンドこそ組んでいないにせよ「ああダグな、あの天才少年な」てな感じでサンアントニオでは知られていた…のかな? この辺自身がないんだが、要するにサンアントンでもメキシコ人、白人、黒人のコミュニティでどんだけ違ったのか、それとも違わなかったのか。ちょいとそういうところが謎なのでこういうことがやめられないってわけですね。

Flaco Jimenez#2 - 音楽・脳・アメリカに続く