第六章 フューリアス・スタイル

ヒップホップ・ジェネレーション 「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語について書いてます。

ヒップホップ3人目の「オリジネーター」とも言えるグランドマスター・フラッシュ、ロっク・ステディ・クルーのリッチー"クレイジー・レッグス"コロン、あるいは伝説のグラフィティ・ライターたちがいろいろ登場。この章では、ヒップホップのブロンクス内での盛り上がりを例示して、その後のブロンクス外部への広がりを示唆している。

こうして、ショウは完成された。スクラッチ・アンド・ミックスといったテクニックや、目も眩むような高性能のパフォーマンスで観客を楽しませるフラッシュの革新的DJプレイがとうとう確立されたのだ。「二、三年の間、俺はずっとからかわれていたんだ。『お前がレコードを痛めつける男か!』なんてね」とフラッシュは笑う。「でも、他のDJは全員、スタイルを変える必要に迫られたよ」

しかし、Bボーイングは極めて限定的な時期及び場所で発展したと、クレイジー・レッグスは力説する。「俺たち、カポエイラが何かすら知らなかったよ。ゲットーに住んでいたんだからな! ダンス・スクールもなかったし。あったとしても、タップにジャズ、バレエの教室だった。当時、ゲットーで俺が唯一目にしたダンス・スクールは、ブロンクスのヴァン・ネスト・アヴェニューにあるバレエ教室だった。俺たちのBボーイングに直接的影響を与えたのは、ジェームズ・ブラウンだ。それは断言できる」

それぞれ味わい深いので、引用させていただきました。

バンバータが提唱したヒップホップの四大要素の中で、グラフィティが地下鉄路線沿いに広がって、いち早くブロンクスの外に出た。70年代半ばには人種も多様化し、「ただの落書き」はインパクトのあるサブウェイ・グラフィティへと変化していく。

地下鉄車両の外側は、グラフィティを描くのが非常に困難なスペースだった。アクセスも難しく、多数のライターがそのスペースを狙って競い合っている上、大きな危険を伴うからだ。そのため、初期のグラフィティ・ライターは、その序列を細かな点まではっきりさせた。地下鉄のキングになるためには、あらゆる場所に作品を描いたり、大胆なスタイルを披露するなどして、誰にも負けない存在感を示さなければならない。

グラフィティが飛び抜けて好きな人なら。とっくにドキュメンタリー映画『Style Wars』やMartha Cooperの写真集で洗礼を受けてるんでしょうね。

ヒップホップよりもむしろジャズやロックにだって影響を受けたんだよ、ってグラフィティライターのLady Pinkがこの章で言ってて、はたと気がついた。落書きっていう行為そのものはブロンクスだけの話ではなくて、世界中のあらゆる都市の若者がやる遊びの一種だから、もともとユニヴァーサルなものなのだ。じゃあ日本の場合は? グラフィティって言うと桜木町の壁を思い出すんだがきっとアレではない。そりゃやっぱコミケ痛車の世界になってくるのか?

コミケ的なエロアニメ絵の反逆性みたいなものが、ようやく世界にも知られてきたんじゃないかな、なんて言ってみる。でも当時の連中は地下鉄の車両全部にすごい絵を書ききってるんだから、いまの日本でそれに匹敵するようなインパクトってなんだろう…メコスジ幼女漫画を都庁に書くとかいう事件があればね、世界にニュースが届くだろうなあ。

次章はブロンクスの外へ、という流れ。いい曲順ですねえ。

第七章 世界は俺たちのもの