第七章 世界は俺たちのもの

ヒップホップ・ジェネレーション 「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語について書いてます。この章は前半では飛び抜けて面白かった。

ジャジー・ジェイいわく、ブロンクスは一時的に「ヒップホップ大干ばつ」という時代になったのだという。どういうことかというと、ジャジー・ジェイの年代は、クール・ハークやアフリカ・バンバータのパーティを見てかっこいいと思って、一生懸命DJの腕の磨きをかけていったのです。ところが、当時15歳だった連中は5年も経てば20歳になるわけで、遊びが変わってくるわけだ。ジャジー・ジェイがせっかく鍛えた腕を披露する場は、時が経つに連れてずいぶん小さくしょぼくなっちゃった。なぜなら当時パーティを盛り上げていたお客さんがオトナになると、ブロンクスからアップタウンのR-23のクラブへと移るようになったのだ。そこではうまーい具合にブロンクスのエッセンスを取り入れた、洗練された大人のパーティが行なわれていたんだとよ。上野で遊んでいた中学生が大人になったら六本木に行ってみる、っていう感じと一緒でしょうね。

その一方で、ヒップホップに金のニオイを嗅ぎ付けたレーベルも、「本当にヒップホップで商売できるのかどうか」を見極めるために、クラブを徘徊していた。DJのグランドマスター・フラッシュにもレコード出しませんかっていう打診はあったらしいんだが、当時は「ヒップホップをレコードにするって?バカげている」って感覚だったので断ってたんだと。この辺の感覚が面白い。現場では「ラップ」そのものが場つなぎ的な、その場しのぎの余興みたいなもんであくまでも主役はDJであった。DJこそがパーティの王者だったわけです。それに対して、よそからやって来たレーベル側は、なにか売れるとしたらラップじゃないかっていう感覚があった。この現場と産業側の食い違いは、実は音楽産業には20世紀初頭から、いや19世紀のミンストレル・ショーから、ずーっと繰り返されて来たっつーわけですなあ。

ちょうどその頃、Fatback Bandが出したシングルのB面曲「King Tim III」などがリリースされて、いよいよレーベルの連中は焦った。焦るよなそりゃあ。

King Tim III - Fatback

このギリギリラップかラップじゃないか、っていう感じがやばいすね。いち早くラップを出して出し抜こうと思ってるのに、なにやら「惜しい!」って感じのものが出てくるってスリリングっすね。同じ年にジョー・パターンも「rap-o clap-o」というスレスレの曲を出してる。

Joe Bataan - El rap-o clap-o 1979

誰が一番最初に市場に旗を立てるかっていう競争は、結局シュガーヒルが勝利する。「素人集団」であるシュガーヒル・ギャングが、なんのしがらみもなくラップしたパーティ・チューン、「Rapper's Delight」が大ヒットした、それが1979年10月。
the sugar hill gang rapper's delight

んで、こういう道筋がひとつできると、次々と後に道を踏み固めてくれる曲が出てくる。

Kurtis Blow - Christmas Rapping (live on TOTP jan'80)

Grandmaster Flash And The Furious Five - Superappin'

Spoonie Gee featuring The Treacherous Three - Love Rap

"Grandmaster Flash And The Furious Five"という名義からも分かる通り、モノホンの方々は「DJが主役です」という考えに凝り固まってたんすよね。もちろん「フラッシュさんすげえよ」って歌詞なんだけど、現場とは関係ないリスナーにとっては、クイック・ミックスと言われてもなんだか分からないっていう。

あと面白かったのは、NYのレゲエ・レーベルである名門Wackie'sやJoe Gibbsからもラップレコードを出したっていう(黒?)歴史は実にスリリング。後に伝説となる二人のレゲエクリエイター、ロイド・バーンズもジョー・ギブスも、これ聞く限りはまだまだどインディって感じがする。

Wackie's Disco Rock Band 'Wack Rap' (Wackie's 1979)

XANADU-RAPPERS DELIGHT disco funk rap

さて、ダンスとグラフィティはどうだったか。ジャジー・ジェイと同じく「ヒップホップ大干ばつ」の時代に「くそつまんねえな!」って心持ちで、ダンスでストリートでのし上がったクレイジー・レッグスが、ついにRock Steady Crewを立ち上げますって話。五毒拳なんていうカンフーのカルト映画にも影響受けてる。実際、誰も語っちゃくれないんだが、20世紀初頭からこのカンフー映画の時代まで、西インド諸島からニューヨーク、フロリダあたりでの、中国系のCultural influenceは相当なもんだと思うんですよねー誰かピンポイントで狙い絞って語ってくれないだろうか。


それから「反グラフィティ運動」を前面に押し出してまでアピールしてきた市当局とグラフィティライターとの対立はいよいよ深まる。

そして、グレイザーとウィルソンの論文は、違う種類の転換点も提示していた。グラフィティに対するネオコン派の態度は、静観姿勢という放棄の政治から、封じ込めの政治へ変化する上での要となるだろうと示唆していたのである。そして、これらの政治方針が、ヒップホップ世代を大きく様変わりさせることになる。

封じ込めっていうのは、マスコミから市民団体総動員で、「グラフィティは暴力の入り口である」ということを始終繰り返すこと。かの有名な「割れ窓理論」が、偉い学者の学説として引っ張り出されて来たのはこの頃。結局この封じ込めのピークは1984年、地下鉄自警団を自称するBernhard Goetzって男が、4人の黒人の少年に発砲して国民的英雄として有名になってしまう。これは本当におっかない話である。

もちろん、一方ではグラフィティをカルチャーとして擁護する側もあったわけでそれは次章で。

第八章 爆発寸前のズールーたち