中国を思う

あんな大国、くたばってしまえばいいんだよ。

というのはまあただのロックな台詞。世界中で抗議活動が露になっていても、あの国にはほとんどダメージがないのかもしれない。

中国は多民族国家であるから、もし民主化の波が訪れたのならば意見の相違によってあっという間に分裂国家になってしまうだろう、だから国家として成立するには共産党の一党支配しか道はない、という説はなるほど納得できるものであるが、しかし多民族という一点だけで言うならブラジルもそうだしアメリカ合衆国もそうだ。その相違が先住民から収奪した無尽蔵な資源を使っているかどうかという点が重要ではあるが、それでも民主化できない理由ではない。なにしろあの国は言論の自由がない。在外中国人の苦しい自国の擁護を見ていると、チベット問題の報道が明らかではないだけにそっちのほうが心が痛む。彼ら彼女らは、一体なにを必死に擁護しているのか。

しかしそれは人間の心理のなせる業なんであって、あれだけ非難に晒されていると自己反省もなにもあったもんじゃない。堅い殻に閉じこもって必死に自分たちの拠って立つ地点を確保しようとするのは、自分にも思い当たる部分がある。きっと彼らもそうなのだろう。

太陽と北風の話でも分かるように、このまま世界各国があの国に北風を吹かし続けるのならば、ベルリンの壁の何十倍も厚い万里の長城でさらに自国を囲うかもしれない。だからといってでは太陽ではどうか、今までさんざん太陽でやってきたではないか、という意見もまた分かる。外交はアメとムチ。太陽か北風かの二者択一はよけいに難しい。

中国に公民権運動が起こるのはもうすぐだろう。チベットなどの少数民族しかり、毒餃子のような汚染物をまきちらすようなシステマティックな工場に勤務する労働者たちしかり、立ち上がる火種はそこかしこにある。共産党抗日でもってこれを押さえつけているようだがさてこの限界はどこにある。そして少数民族や労働者が、労働運動や団体交渉といった実利的な運動だけにおさまらず、心に刻まれるような歌がアンダーグラウンドで流通してその民主化の端緒となるような、そういうムーブメントが起こってもいい、なんてちょっと期待している。

ちょうどあの国にはふたつの大河がある。その大河沿いに起こるブルースは一体どういう音楽だろう。アメリカ的ではない、アジア的なブルースの胎動を見逃さないようにしたい。