第一章 ネクロポリスーー死の街

ヒップホップ・ジェネレーション 「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語について書いてます。

話は1977年ワールドシリーズ。NYヤンキース対LAドジャースの描写から始まる。

黒人のメジャーリーガーにはジャッキー・ロビンソンという偉大な先駆者がいたが、レジー・ジャクソンはそれに継ぐ重要な選手である…そんなことを自分で発言するような選手、それがレジー・ジャクソンだった。金満球団ヤンキースは、強力なスラッガーであるレジー・ジャクソンを高額で招き入れた。しかし高慢な性格から周囲との折り合いは悪く、シーズン中は球団内で衝突し、人種にかかわりそうなデリケートなケースも幾度かあった。でまあいろいろあった上でのワールドシリーズ出場が決まったヤンキースであった。

その第2戦。ヘリコプターのカメラが球場を引きの絵で撮った時に、サウス・ブロンクスの廃校から火の手があがり煙がたなびいていた。アナウンサーは映像に合わせて解説した。

「みなさんご覧下さい。ブロンクスが燃えています」

それは大事件というわけではなく、ワールドシリーズの中のごく日常の風景のように見えたんだよっていう話。このときサウス・ブロンクスは、ド貧困の下方スパイラルの中にあった。そのずっと前から白人は郊外へと引っ越し、残った世帯は黒人とプエルトリカンが中心の貧困層。アパートの悪徳大家は、放火して保険を貰ったほうが稼げると考え、ゲットーのギャングを使って放火させていた。ひどいデータが書かれており、1973年から1977年の間、サウス・ブロンクスだけで三万件の放火があった。1975年6月のある日には3時間に40件の放火があったという。これらはキング牧師暗殺やワッツ暴動の時の放火や暴動と異なり、自暴自棄がなせる放火であった。

この1977年という年には、7月13日にニューヨーク大停電が起こった年でもある。

この停電の間に、100件の放火と、何百軒の略奪が行なわれた。ブロンクス留置所の囚人は施設を3棟燃やした。この時、闇夜に乗じてグラフィティ・ライターたちがもやもやと奮闘した歴史的な日でもあったんだけどそれは別の話。で、そんなひどい事態であったにもかかわらず、市当局はブロンクスの惨状を「打つ手なし」と判断し、徐々に学校などの公共サービスを縮小させるなどの施策を行なった。

1977年のワールドシリーズは。第6戦でレジー・ジャクソンが『三打席連続本塁打しかも全部初球打ち』という偉業をやってのけて優勝を決めた。その瞬間ヤンキースのファンがなだれ込んでレジー・ジャクソンを追いかけ、身の危険を感じたレジーは一目散にベンチに走ってる。マジで走ってますね。

この章のキモはジャッキー・ロビンソン(1919年生まれ)とレジー・ジャクソン(1946年生まれ)を並べてジェネレーション(世代)をそれとなく示唆するってところ。有色人種として初めてメジャーリーグの選手となったジャッキー・ロビンソンはもちろん公民権運動の象徴的な存在だったし、引退後も公民権運動に精力的に参加していたんだけど、1972年には死去。1970年代ってのは、公民権運動の強力なリーダーがどんどん死んじゃって、人種分離は過去のものというくせに格差は内部でどんどん拡大していった時代でもあった。

同じ1977年、ジャマイカではルーツロックレゲエのバンドCultureが『Two Sevens Clash』という曲を出した。2つの7が重なってまじ不吉なことが起こるぜ、っていう警告の歌。Cultureはこの前年に華々しくデビューし、ルーツロックレゲエとラスタが社会を動かすエネルギーとなっていく。

…という感じで、次章のジャマイカ話につながります。なかなか話の繋ぎもいいっすね。

第二章 シプル・アウト・デー