DJ Kool Herc#2

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テクニクスは日本の松下電器産業のブランド名で、1965年に国内市場向けのスピーカーに付けられたのが最初。その後ダイレクトドライブ方式のターンテーブルのブランド名として国際的に有名になる。1969年にプロ仕様としてまずSP-10を、次に民生用として1971年にSL-1100を発売する。で、このSL-1100こそが、クール・ハークが最初に使ったターンテーブルなんだとよ。これまたエラい宣伝になりますなあ。ポイントはやはりダイレクトドライブ方式っていう点で、モーターが直接ターンテーブルを回すために、ベルトや歯車などを介する機構よりも部品が少ない分単純に長持ちするし丈夫なので、スッコスコとスクラッチするにはうってつけだったわけだ。いかにも理系ではない説明ですんません。

JBの「セックスマシーン」は1970年リリース、1971年にテクニクスのSL-1100が発売。橋本じゃなくても「時は来た、それだけだ」って思うだろう。1972年には地元のパーティ、今や有名な1520 Sedgwick Avenueで、JBの「Give It Up Or Turn it A Loose」の「Now clap your hands! Stomp your feet!」のリフレインを延々とつなげた、のだろうね多分。この場合「延々と」ってのがミソだろうなあ、曲が終わらないんだよなあすげえなあ革命的。

ここでちょっとジャマイカのサウンドシステムとの決定的な違いを思いついたんだが、ジャマイカでは同じトラックでいろんなシンガーやDJが録るから、それらを次々とつなげていくことができるんだが、JBにはバージョンがないから、延々とブレイクを繋げていくだけでは間が持たない、飽きる、どうしよう…こすっちゃおう、ということでスクラッチが定番化したんだろうねきっと。

そんでこれがヒップホップカルチャーの幕開けという事になるわけで…まあいいか、以下端折ります。

で焦点をクール・ハークに絞ると、1980年にはDJ活動を辞めて、以降はサウスブロンクスのレコード店を経営しながら、ちょいちょいイベントに出たり、著作を上梓したりしとるそうな。1972年から1980年までの8年間、ヒップホップに関わるあらゆるアーティストが、何らかの形でクール・ハークと現場を共にしたのだろう。初期のラッパーは皆クール・ハークがヒーローだったと口を揃える。商業的な方向にはまったく見向きもしなかった、なんて話が美談と化してるけどそれはどうなんだろうね。DJのプレイが録音物として認められるのはもっとずっと後なわけで、直接耳にヒップホップとして認識されるのはごく初期にはラップだけだったことを考えたら、やっぱりベシャリが達者な人だけが商業的成功を収めたんだろう。クール・ハークは確かにすごい、でもどうやって売ればいいか分からない、というのがレコードメーカーの思いだったんじゃないだろうか。

YouTubeで見られる現在のクール・ハークは、地元のコミュニティ活動を熱心にやってるおっさんという感じ。巨大になったヒップホップ産業に警鐘を鳴らす人は多いが、クール・ハークの気持ちほどではなかろうなあと思う。例えばよさこい祭りは高知の商工会議所が1954年に発案したんだが、今や全国に普及したYOSAKOIソーラン祭りの有様を見て悲観している、みたいな喩えが分かりやすいのかも、あ逆に分かりにくいか。