第二章 シプル・アウト・デー

ヒップホップ・ジェネレーション 「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語について書いてます。

この章はまるごとざっくりジャマイカ音楽史。

ヒップホップの歴史を話すのであればジャマイカの話から始まるのは当然のことでして、それはよく言われるようにDJクール・ハークがジャマイカからの移民で、ジャマイカのやり方を使ってヒップホップの原型が出来たんだよーみたいな話があるから。クール・ハークの生い立ちは第四章に詳しく書かれてはいるんだけど、誤解を恐れずに言うと、もう今となっては、ミシシッピでブルースが生まれてニューオーリンズでジャズが生まれて、っていうのと同程度に『神話』だと言っていいんじゃなかろうかなー。

関係ないけど『レゲエ入門 (ON BOOKS 21)』は新書版でとても読みやすい本だった。何度見てもジャマイカ音楽の歴史って面白いよねーVシネみたいで。大好きだ。

章タイトルの「シプル・アウト・デー」ってカタカナで書くと意味不明だが、これは"It sipple out deh"でMax Romeoの『War Inna Babylon』のサビ部分の歌詞を引用したもの。「外ではひどいことが起こってる」という意味で最初ロメオは"It wicked out deh, It dread out deh"という歌詞を考えてたんだけど、リー・ペリーが"sipple"にすっぺよと提案した。sippleってのは滑りやすいって意味で、バビロンで戦争が起こってる外は危なくて不安定で「ツルッと転んじゃうよ」って、ちょっと笑える表現になった。それを踏まえて、その後コーラスに"mek we slide out deh"「滑って行っちゃおうぜ」という部分も出てくる。どこへいくかっつーと山の頂上。そこからバビロンが燃えるのを見るっていう歌詞。ああホント、パトワも面白いよねー大好きだ。


「政治家もミュージシャンも、ある事実を知っていた…サウンドシステムこそが成功の鍵を握ると。」(本文より)

どうにも収束しないジャマイカの政情。政情不安はそのまま街の治安が不安定であることを意味していた。ギャングを撲滅するにも政治家がギャングを利用してんだからなくなるわけがない。日本でも昔の選挙では南の島のほうで札束飛び交ってヤクザが脅してたっていうし、徳田なんとかさんとか、その対立候補とか。住んだことないから無責任に言ってるんだけど、そういうシマンチュ社会のエグさが悪い方に突出してたんだろうねえ、当時のジャマイカは。

1966年4月21日。ハイレ・セラシエがジャマイカに来た時は、社会的にはアウトローであったラスタマンが、10万人も空港に集まったんだと。10万人という数のすごさは、集まってみた人なら分かるって数なんだろうなあ。クール・ハークは子供の頃、この事件をテレビで見てたそうな。その事件でジャマイカは大いに自信をつけた、とクール・ハークはいう。

ジャマイカの文化的な変化というのは独立以降いろいろあるんだけれども、やはりラスタが最も強力だったのだと思う。思うのだが、そのラスタがあっさりと消えて行く過程ってのも後に控えているわけでして。リー・ペリーの伝記本『People Funny Boy : The genius of Lee Scratch Perry』から引用されているんだが、その中で興味深い言葉をリー・ペリーが語ってるのが引用されてこの章が終わってる。

第三世界は、巨大なボスに吸い込まれてしまった。あらゆる道が塞がれてしまったのだ」

「レゲエ・ミュージックは忌むべきものだ。ジャマイカを破壊する究極の存在さ」(本文より)

まあキチガイだからアレなんだけど(ウソですよ!)、しかしどういう文脈でこれを発言したのかは、ちょっと確認しないといかんなあと思った。彼は自分の所有するブラック・アーク・スタジオをぶっ壊しちゃったんだよねえ。1970年代末までには、ラスタのコミュニティは、国際的に成功したボブ・マーレーやリーに資金面で依存する形になりつつあって、リー・ペリーがスタジオ潰したのが1978年、ボブは1982年に癌で死亡した。

ジャマイカはこういう顛末でした。ではブロンクスはどうだったんでしょうか!?

というわけで第三章では、ヒップホップより少し前の時代のブロンクスに向かいます。

第三章 血、炎、ときどき音楽