Huey Meaux〜アメリカ南西部の仕掛人〜

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そういうわけでヒューイ・モー(Huey P. Meaux)という男、スワンプ・ポップの仕掛人である。簡単に言えば、ビートルズ旋風のブリティッシュ・インヴェージョンの時代に、カントリー/テハーノ畑のダグ・サームらにイギリス風の格好をさせて組ませたバンド、サー・ダグラス・クインテットを仕掛けた人である。もう当時の時代の雰囲気なんて、誰でもモップみたいな頭にすれば売れたんじゃなかろうかというくらいに思えるんだが、当然そんなことはない。以下、Huey P. Meaux ~ The Crazy Cajunを参考にしつつ。


ヒューイは1929年3月10日生まれ。ルイジアナラファイエットのそば、キャプランという田んぼしかないような田舎町で生まれた。親戚一同みなケイジャンフレンチを話し、一週間ずっと小作人として働いて、土曜日は集まってへろへろになるまで踊って飲むような、絵に描いたようなケイジャン/ザディコの環境で育った。

ケイジャンたちがサビーヌ川の西に大移住したのと一緒に、家族はヒューイが12歳の時にテキサス州ウィニーに引っ越した。彼の父親はPappy Te-Tanとして知られるアコーディオン奏者で、ヒューイは家族のバンドでドラムを叩いていた。20代には理髪店で働き、店が終わるとディスクジョッキーとしてテキサス黄金三角地帯(ボーモント、ポートアーサー、オレンジをつなぐ地帯)のダンスパーティで活躍した。なんでここが黄金かというと、20世紀初頭にボーモントに石油が出て、サビーヌ川を挟んだこの地帯に精製だとか運輸だとかの関連産業が栄えたからという。ただしヒューイの20代である1950年代には石油も枯れて、代わりに硫黄が掘られていた。

彼がDJをしていたころの地元の音楽シーンには、歌手のGeorge Jones、ピアニストのMoon Mullican、DJのBig Bopperなどがいた。地元のプロモーター兼プロデューサーのBill Hallという男がヒューイに音楽ビジネスの機微を教え込んだ。1959年、30歳の時に、Jivin' Geneのシングル「Breaking Up Is Hard to Do」で初めてプロデューサーとして名前を出した。この時の歌の仕掛けは、陶器の壁で囲まれた便所に閉じ込めて歌わせて、ボーカルにエコーの効果をかけたことだった。その後も、ダンスフロアにおける10代の若者の心の機微を表現した歌を次々とヒットさせ、そのサウンドは「スワンプ・ポップ」と呼ばれるようになった、という話である。というかね、もうこの頃にはサム・フィリップスがプレスリーの「ハートブレイクホテル」を録音した時にはもうテープエコー使ってたって書いてたぞ、Wikipediaに。なにをやっとるんだねと言いたくなるが、しかしプレスリーがその後RCAに移った後も、サムの録った盤を聞いて「これはどうやって録音したのだろう…そうだ、トイレだ!階段の踊り場だ!」みたいなことをやってたらしいから、別にヒューイ・モーは悪くない。

ところでここで忘れてはならない、というか基本的に覚えておいて損がないのは、ビートルズの登場が1963年であるということ、そしてアメリカにビートルズがやってきたのが1964年であることである。他にもディランがいたり、その前にはプレスリーもいたりするのであるが、音楽ビジネスで飯を食おうとしていたあらゆる人が、この1963年前後にわさわさもぞもぞと動き始めた、しかもそれが全世界同時多発的に起こったというのが面白い。

ヒューイ・モーはたちまちアメリカ南部、南西部で唯一無二のヒットメイカーになった。多くのレーベルを抱え、多くのアーティストのマネージメントをした。とりわけ70年代初期にはあの名門スタジオ、Sugar Hill Recording Studiosも所有した。Barbara Lynnのヒット曲「You'll Lose a Good Thing」だけでも、48,000ドルの印税を手にした、という具合である。彼は本拠地をヒューストンに移して、まるでナッシュビルとメンフィスを合わせたくらいに売り上げたという。ヒューイの耳とプロモーションの才能は有名だった。「曲が第一、シンガーは多分3番目か4番目」というのが信条。「曲がシンガーとプロデューサーを作る。プロモーションはそのすべてを作る」。なるほど。ちょっと納得。こうしてサンアントニオテクスメクスのロックバンドを、イギリスのモッズ風のファッションにして、わざわざロンドンのレーベルからリリースして、Sir Douglas Quintetを作り上げた。ものすごい力業だと思う。

とにかくヒューイ・モーのことを知ってしまうと、スワンプ・ポップのジャンルはもちろん、カントリーやらサザンロックやらで知られる有名なアーティストのほとんどが彼に関わっていたのが一度や二度ではないことを知り、口がポカンとなってしまう。そんなんだから、特にルイジアナ、テキサス周りの音楽関係者で彼のことを知らないのはモグリだったはず。Hank Williams、B. J. Thomas、Chuck Jackson、Doug Kershaw、Clifton Chenier、Big Mama Thornton、Johnny Copeland、Lightnin' Hopkins、Archie Bell and the Drells、Tommy McLain、Cosimo Matassaと、錚々たるメンツである。

ヒューイはとにかくアーティストとの契約にはカライ人であったようだ。彼が手がけたスワンプ・ポップは一発屋だらけであったが、その儲けのほとんどはヒューイが手にした。しかしそれでもメリットがあるから長くつき合うアーティストもいた。例えばフレディ・フェンダー。1975年のヒット作「Before The Next Teardrop Falls」はヒューイが仕掛けた。その後の一連のヒット作で、二人は完全にヒットの公式を見つけたらしい。いわく、「スワンプ・ポップのメロディで、スチールギターと女性コーラスを加えてカントリー調に演奏すると売れる!」という公式だ。こうしてあざとくも(?)またまたメイクマネーをした。ヒューイの方が取り分が多かったのだが、フレディは文句を言わなかった。なぜならそれでもリンカーンに乗って豪邸に暮らす生活を手に入れたからだ。ところがやっぱり金というのは人格を変えてしまうのだろうか、1980年にはフレディは酒と麻薬に溺れて1000万ドルの負債を抱えて破産し、そうなると当然の成り行きなんだが、ヒューイを提訴した。ヒューイの方ももう関係を断つつもりであったようで、1985年のRockin' Sidney Simienのザディコのヒット曲「(Don't Mess With) My Toot-Toot」を最後に、現場仕事からは引退して音楽出版の仕事を始める。ソウルのコンポーザーのアイザック・ヘイズが破産した時に、ヒューイが彼の曲の版権を買い占めたりした。2008年で御年79歳。まだご存命の様子である。