細かいですが
Fania All Starsに"Piano Man"っていう、ピアニストのPapo Luccaが張り切っちゃう曲がありましてね。
あれっ?
おかしいなっこの曲?
聞いたことあるなーってずっと思ってたんです。
ピアノマンって言えばBilly Joelなんですけど、そのビリー・ジョエルのピアノマンにあやかった曲だと思ってたわけです。
そんでこないだラジオでピアノマン聞いたら「思てたのんとちゃう!」ということになりまして。
ヤダなぁこわいなぁ
おかしいな、おかしいなとBilly Joelの曲をYouTubeで聞いておりましたらね
おかしいなぁなんでかなぁっていろいろ聞いてたら…
急に見つかった!
"Piano Man"のパポ・ルッカのフレーズは、"Prelude/Angry Young Man"っていう曲のイントロと似ていたんですねーえ。
イントロを拝借してBilly Joel的な風味を足したんだろうなあっていう。
どうでもいい話でした。こわいなぁ(稲川淳二風に)
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第五章 魂の救済
ヒップホップ・ジェネレーション 「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語について書いてます。
アフリカ・バンバータを中心に解説した章。
クール・ハークからバンバータへ。著者ジェフ・チェン氏によるものすごーく理に適った章の並べ方が素晴らしい。
ヒップホップがブロンクスで流行した数年間は、そのままどっかの博物館に入っちゃう可能性だってあったわけで。クール・ハークやグランドマスター・フラッシュがいかに天才だとしても、もしかしたら「ガキの遊び」の一言で片付けられていたかもしれない。ところがそうはならなかった。それはバンバータがいたから。ヒップホップという概念、思想、運動、フォーマット、全部バンバータが創造したものだよって話です。
ヒップホップ世代の原型の大半を形作っているのは、バンバータ・アシムの人生を象徴する一連の事実や伝説のようだーー彼は確かにゴッドファーザーであったが、オリジナル・ギャングスタでもあった。また彼は、公民権運動後のピースメイカー、黒人の発言を促す人物、プレイクビートの発掘学者、宇宙の神秘論主義者、謀略論者、アフリカ文化の未来を予見する人物、ヒップホップ活動家、二一世紀の語り部でもあったのだ。(本文より)
いろいろな通り名があるんだよね〜この手の人って。実際に会ってみたかったもんだよなあ若い頃にさー。
ブラックムスリムの家庭らしく、子供のころから政治的な議論もよくしてきた。汎アフリカ主義、アフリカ中心主義、黒人優越主義、バリエーションはいろいろあるけれども、急進的な思想になればなるほど、起源にはマーカス・ガーヴェイがいて、その枝葉を見たらラスタファリアニズムがあって…とまあ、壮大に繋がってる。
バンバータが少年時代に見た「ズールー戦争(1964年)」って映画に影響を受けてまず霊感を受けて、のちに作文コンテストで優勝してアフリカ旅行してきて、「ズールーネーション」って組織名に結びついたらしい。
そこからマルディグラのズールー・クルーのキングの意匠(のみならず衣装も)を採用したのは、ひとえにセンスだろうなと思う。
バンバータのことを思うと、マーカス・ガーヴェイもこんな感じの大物だったんだろうなって気になる。早々とギャングのトップになるような人だから、腕力はもちろん、ベシャリだって達者だし、頭の回転だって早くないといけない。それ以上に、なにか宗教的な、もっと言えば呪術的なセンスもたんまりあったんだろうなと。
んで次章へ。
第四章 名を成した男
ヒップホップ・ジェネレーション 「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語について書いてます。
まるごとクール・ハークの章。
いとうせいこうの「東京ブロンクス」や、大神の「大怪我」での冒頭のECDの部分であるとか、ヒップホップの源流をさかのぼろうって人はみな「ブロンクス=ヒップホップの聖地」と感じるかもしれないなっていうのはよく思う。それはもう仕方ないんだろう。それだけこの時代、ヒップホップ黎明期のブロンクスってのは異常なワクワク感がある。
1967年11月に12歳クール・ハーク(本名クライヴ・キャンベル)の家族はジャマイカからNYに降り立った。
クライヴは、カズン・ブルーシー、ウルフマン・ジャックといった、ロックやディスコのラジオDJに心酔し、彼らのスムーズな語り口を聴いていた。また、地元のカソリック・スクールやマーフィー・プロジェクトで開かれていた青少年向けのダンス・パーティ「ファースト・フライデーズ」にも通い出す。さらに、母親に連れられて様々なハウス・パーティにも顔を出すと、WBLSやWWRLでは決してかかることのない音楽を聴いた。テンプテーションズ、アレサ・フランクリン、スモーキー・ロビンソン、そして何よりもジェームズ・ブラウンが、クライヴの師となった。彼らの音楽を聴くことで、クライヴはジャマイカ訛りを矯正していったのだ。(本文より)
クライヴはいろんなことが得意で、学校では超人気者になった。クライヴだけに限らず、彼らの世代は、ちょっと上の世代のギャングたちに対しては「ギャングwww」と草を生やすくらいにバカにした感覚があったようで。例えば1970年の夏にはTAKI183っていうグラフィティの元祖が、そこらじゅうのギャングの縄張りにタグを落書きして。悔しがるギャングを見てはざまあみろと思っていたようだ。
この話だけを見ても、ガキ対お兄さんギャングの闘いは、ガキの勝ちだってことが分かるだろう。暴力による闘いという構図をずらして、スタイルの闘いっていうのかな、なんかこうワケの分からんものにして、大人や年上をおちょくるわけよ。まさにヒップホップそのものっていう態度だと思うんだなこれは。コミュニティ内でのギャングの機能がどのように変化したのかは、この本からは読み取れない。でも。特にギャングのなにが変わったか、ではなくて、要するにこれは単に「世代交代」、生意気な若者、ガキドモが「おっさんw」とバカにしたってだけの話だろう。
意外と見逃せないのは、少年クール・ハークが通っていたクラブで、ジョン・ブラウンというDJが当時かけていた曲。それはRare earthの「Get ready」って曲で、これ12分くらいあるからみんながっつり踊れたんだとか。
ジョン・ブラウンの回していたクラブ「プラザ・トンネル」はつとにギャングにも有名で、ジェームズ・ブラウンの「Soul Power」が流れると、ブラック・スペーズの連中がフロアを占拠して「Spade Power!!」と絶叫していたとか。おおこれは、怖い怖い。ジェームズ・ブラウン他公民権運動のニオイがする曲は、当時すでに黒人専用ラジオでもほとんどかからなくなってたらしく、ストリートの音楽だぜーみたいな感じでギャングにもてはやされていたようですな。
クール・ハークが歴史に名を残すとすれば、まずブレイクビーツを作ったことだ。幼い時にジャマイカで見たサウンドシステムの熱気を再現するべく(まず第一に自分のマイクをスペースエコーにぶっこんだってあたりの描写に惚れた!)、父親のシステムを使ってブロック・パーティを始めたのが1974年の夏。人気は大評判で、ギャングからおねーちゃんおっさんといろんな人が集まってダンスしてた。その中でクール・ハークが観察して分かったことは、全員ブレイク(ドラムのソロ部分)で踊りまくるために待っているっていうことだった。だったら2枚使ってブレイクをつなげれば(以下略)。
それではこの章に登場するブレイク集です。
JAMES BROWN & THE JB'S-GIVE IT UP TURN IT LOOSE LIVE 1969
Bongo rock 73 - Incredible bongo band
Johnny Pate - Shaft In Africa
DENNIS COFFEY - SCORPIO
クール・ハークは1976年には超絶人気DJになってて、かつてギャングが分割していたテリトリーを、今度はサウンドシステム、DJクルーが分割するようになった。しかし1977年の夏の大停電の後、機材を盗んだ連中が新たに自分らでパーティを始めたりすることなどもあって、急速にクール・ハークの人気は落ちたそうな。これ因果応報ってこった。若い連中の突き上げくらっちゃったわけだな。そんで1977年のあるパーティで暴力沙汰にあい、キャリアを中断するハメになっちゃいました。というところで一区切り。
ではバンバータから見るとどうだったか。ブラック・スペーズっていうかつての広域ギャングの盃を受けて組長になっていた彼が、ヒップホップにどういう命を吹き込んだか。で次章へ繋ぎます。
第三章 血、炎、ときどき音楽
ヒップホップ・ジェネレーション 「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語について書いてます。
サウス・ブロンクスでも最大のギャングのひとつであるGHETTO BROTHERSの頭目、Benjamin Melendezの話を軸にして、70年代前半のヒップホップ以前のサウス・ブロンクスのギャング勢力図がよく分かる章。地名とかギャングの名前がカタカナだらけだもんで、なかなか読みにくい章でもある。
GHETTO BROTHERSはプエルトリカンのギャングであり、なおかつファンクバンドでもあった。
"Ghetto Brothers Power"
これブーガルーじゃないの?ブーガルーっぽいけど。でも「ブーガルー」は彼らのお兄さん世代の60年代中頃に流行った音楽の名称。1964年にJerry MasucciがFaniaレーベルを作ってるから時代はまさにその辺りだわな。それ以前はワンダラー世代って言って、50年代末から60年代初頭にドゥワップ歌うのがかっこよかった世代だ。ブロードウェイでヒットするウエストサイド物語のモチーフはさらにもうすこし前のギャング。
ゲっトー・ブラザーズの面々は要するにイケメンで話も上手だったために、当時のマスコミにもちょいちょい登場して話題になり、サウス・ブロンクスという土地とそこにいるギャングに対するロマンチックなイメージが作られた。Benjamin Melendezは何をした人かというと、1971年の末に、ブロンクス中のギャングを巻き込む血みどろの戦争になりかけたところを、話し合いで和平をもたらそうとした。のちに『80 Blocks from tiffany's』というドキュメンタリー映画にもなった。ただこの映画、1979年のものらしいから、抗争時を振返って語ってる連中は結構ギャングって言うには年齢いってる。しかしねえ…それにしても…こういうの動画見れちゃうってインターネットすごすぎ。
"80 Blocks from tiffany's"
ブロンクス区(148.7km²)の面積は東京に喩えると、
江戸川区(49.86km²)+葛飾区(34.84km²)+墨田区(13.75km²)+足立区(53.20km²)=151.65km²
ということになる。結構でかい。この時代のギャングの名前で検索すると「Bronxのギャングについて語ろう」的なフォーラムが出てくる。2chのアウトロー版のノリや、「おめえどこ中だよ!戦争か!」っていう東京ダイナマイトの小ネタと重なって見えてくる。
当時のさまざまなギャングは、Bronx Riverを境にして、大まかに人種で分けられたようだ。東側がアフリカ系、西側がプエルトリコ系のギャングであった。東側にはBlack Spadesという大きなギャングがあって、これは後にAfrica Bambaataaが仕切ることになる。西側のプエルトリコ系はメレンデスのゲットーブラザーズの他、いろんなギャングが派生した。そういや黒人とプエルトリカンのギャングって、よく橋で遭遇するシーンが多かったような。
諸説あるだろうけど、著者ジェフ・チェンは、1968年にギャングが発生したんだという。ローズ党やブラック・パンサーのような公民権運動の団体は街の若者を戦闘員に取り込んでたっつー話もそれまであったんだが、結局急進的な政治団体についていけたのは大学出たりした比較的インテリの連中だけで、そんなのは一部だったんですよ、といってる。ゲットーにはもっと落ちこぼれた連中がいたわけだよと。そんで自己防衛のためにギャングが出来たっつー話。
1968年から1972年の5年間でギャングは消滅したって書かれてるんだが、翌年の1973年には、彼らのお兄さん世代が作った音楽「ブーガルー」から派生したファニアオールスターズが。ヤンキースタジアムでライブやるんだよなあ。公民権運動やブラックパワーの流れとともに、プエルトリカンが獲得した民族的アイデンティティがついに花開いたのがこの時!…なーんていままで自分流に解釈してたんだけど、ちょっと複雑な気持ちになった。実際に表舞台で成功してる方はいつだってビジネスとべったりで、ストリートの落ちこぼれどもは相変わらずだったんだよな、というのが切ない。
以下次章。
第二章 シプル・アウト・デー
ヒップホップ・ジェネレーション 「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語について書いてます。
この章はまるごとざっくりジャマイカ音楽史。
ヒップホップの歴史を話すのであればジャマイカの話から始まるのは当然のことでして、それはよく言われるようにDJクール・ハークがジャマイカからの移民で、ジャマイカのやり方を使ってヒップホップの原型が出来たんだよーみたいな話があるから。クール・ハークの生い立ちは第四章に詳しく書かれてはいるんだけど、誤解を恐れずに言うと、もう今となっては、ミシシッピでブルースが生まれてニューオーリンズでジャズが生まれて、っていうのと同程度に『神話』だと言っていいんじゃなかろうかなー。
関係ないけど『レゲエ入門 (ON BOOKS 21)』は新書版でとても読みやすい本だった。何度見てもジャマイカ音楽の歴史って面白いよねーVシネみたいで。大好きだ。
章タイトルの「シプル・アウト・デー」ってカタカナで書くと意味不明だが、これは"It sipple out deh"でMax Romeoの『War Inna Babylon』のサビ部分の歌詞を引用したもの。「外ではひどいことが起こってる」という意味で最初ロメオは"It wicked out deh, It dread out deh"という歌詞を考えてたんだけど、リー・ペリーが"sipple"にすっぺよと提案した。sippleってのは滑りやすいって意味で、バビロンで戦争が起こってる外は危なくて不安定で「ツルッと転んじゃうよ」って、ちょっと笑える表現になった。それを踏まえて、その後コーラスに"mek we slide out deh"「滑って行っちゃおうぜ」という部分も出てくる。どこへいくかっつーと山の頂上。そこからバビロンが燃えるのを見るっていう歌詞。ああホント、パトワも面白いよねー大好きだ。
「政治家もミュージシャンも、ある事実を知っていた…サウンドシステムこそが成功の鍵を握ると。」(本文より)
どうにも収束しないジャマイカの政情。政情不安はそのまま街の治安が不安定であることを意味していた。ギャングを撲滅するにも政治家がギャングを利用してんだからなくなるわけがない。日本でも昔の選挙では南の島のほうで札束飛び交ってヤクザが脅してたっていうし、徳田なんとかさんとか、その対立候補とか。住んだことないから無責任に言ってるんだけど、そういうシマンチュ社会のエグさが悪い方に突出してたんだろうねえ、当時のジャマイカは。
1966年4月21日。ハイレ・セラシエがジャマイカに来た時は、社会的にはアウトローであったラスタマンが、10万人も空港に集まったんだと。10万人という数のすごさは、集まってみた人なら分かるって数なんだろうなあ。クール・ハークは子供の頃、この事件をテレビで見てたそうな。その事件でジャマイカは大いに自信をつけた、とクール・ハークはいう。
ジャマイカの文化的な変化というのは独立以降いろいろあるんだけれども、やはりラスタが最も強力だったのだと思う。思うのだが、そのラスタがあっさりと消えて行く過程ってのも後に控えているわけでして。リー・ペリーの伝記本『People Funny Boy : The genius of Lee Scratch Perry』から引用されているんだが、その中で興味深い言葉をリー・ペリーが語ってるのが引用されてこの章が終わってる。
「第三世界は、巨大なボスに吸い込まれてしまった。あらゆる道が塞がれてしまったのだ」
「レゲエ・ミュージックは忌むべきものだ。ジャマイカを破壊する究極の存在さ」(本文より)
まあキチガイだからアレなんだけど(ウソですよ!)、しかしどういう文脈でこれを発言したのかは、ちょっと確認しないといかんなあと思った。彼は自分の所有するブラック・アーク・スタジオをぶっ壊しちゃったんだよねえ。1970年代末までには、ラスタのコミュニティは、国際的に成功したボブ・マーレーやリーに資金面で依存する形になりつつあって、リー・ペリーがスタジオ潰したのが1978年、ボブは1982年に癌で死亡した。
ジャマイカはこういう顛末でした。ではブロンクスはどうだったんでしょうか!?
というわけで第三章では、ヒップホップより少し前の時代のブロンクスに向かいます。
第一章 ネクロポリスーー死の街
ヒップホップ・ジェネレーション 「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語について書いてます。
話は1977年ワールドシリーズ。NYヤンキース対LAドジャースの描写から始まる。
黒人のメジャーリーガーにはジャッキー・ロビンソンという偉大な先駆者がいたが、レジー・ジャクソンはそれに継ぐ重要な選手である…そんなことを自分で発言するような選手、それがレジー・ジャクソンだった。金満球団ヤンキースは、強力なスラッガーであるレジー・ジャクソンを高額で招き入れた。しかし高慢な性格から周囲との折り合いは悪く、シーズン中は球団内で衝突し、人種にかかわりそうなデリケートなケースも幾度かあった。でまあいろいろあった上でのワールドシリーズ出場が決まったヤンキースであった。
その第2戦。ヘリコプターのカメラが球場を引きの絵で撮った時に、サウス・ブロンクスの廃校から火の手があがり煙がたなびいていた。アナウンサーは映像に合わせて解説した。
「みなさんご覧下さい。ブロンクスが燃えています」
それは大事件というわけではなく、ワールドシリーズの中のごく日常の風景のように見えたんだよっていう話。このときサウス・ブロンクスは、ド貧困の下方スパイラルの中にあった。そのずっと前から白人は郊外へと引っ越し、残った世帯は黒人とプエルトリカンが中心の貧困層。アパートの悪徳大家は、放火して保険を貰ったほうが稼げると考え、ゲットーのギャングを使って放火させていた。ひどいデータが書かれており、1973年から1977年の間、サウス・ブロンクスだけで三万件の放火があった。1975年6月のある日には3時間に40件の放火があったという。これらはキング牧師暗殺やワッツ暴動の時の放火や暴動と異なり、自暴自棄がなせる放火であった。
この1977年という年には、7月13日にニューヨーク大停電が起こった年でもある。
この停電の間に、100件の放火と、何百軒の略奪が行なわれた。ブロンクス留置所の囚人は施設を3棟燃やした。この時、闇夜に乗じてグラフィティ・ライターたちがもやもやと奮闘した歴史的な日でもあったんだけどそれは別の話。で、そんなひどい事態であったにもかかわらず、市当局はブロンクスの惨状を「打つ手なし」と判断し、徐々に学校などの公共サービスを縮小させるなどの施策を行なった。
1977年のワールドシリーズは。第6戦でレジー・ジャクソンが『三打席連続本塁打しかも全部初球打ち』という偉業をやってのけて優勝を決めた。その瞬間ヤンキースのファンがなだれ込んでレジー・ジャクソンを追いかけ、身の危険を感じたレジーは一目散にベンチに走ってる。マジで走ってますね。
この章のキモはジャッキー・ロビンソン(1919年生まれ)とレジー・ジャクソン(1946年生まれ)を並べてジェネレーション(世代)をそれとなく示唆するってところ。有色人種として初めてメジャーリーグの選手となったジャッキー・ロビンソンはもちろん公民権運動の象徴的な存在だったし、引退後も公民権運動に精力的に参加していたんだけど、1972年には死去。1970年代ってのは、公民権運動の強力なリーダーがどんどん死んじゃって、人種分離は過去のものというくせに格差は内部でどんどん拡大していった時代でもあった。
同じ1977年、ジャマイカではルーツロックレゲエのバンドCultureが『Two Sevens Clash』という曲を出した。2つの7が重なってまじ不吉なことが起こるぜ、っていう警告の歌。Cultureはこの前年に華々しくデビューし、ルーツロックレゲエとラスタが社会を動かすエネルギーとなっていく。
…という感じで、次章のジャマイカ話につながります。なかなか話の繋ぎもいいっすね。
止められない止まらない
ヒップホップ・ジェネレーション 「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語
- 作者: ジェフ・チャン,押野素子
- 出版社/メーカー: リットーミュージック
- 発売日: 2007/12/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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この書籍を手に取った時と、読み終えた時に感じたコストパフォーマンスの違いがあまりにも大きくて今でも驚いている。とにかく分厚い本で、価格はそれなりにお高い本である。とはいっても音楽本でカサを増やすことなど簡単なことであって、著名な音楽ライターを筆頭に著名でもない音楽ライターを多数使って、『○○CD完全レビュー』でもタイトル付ければよい。そういうカサの増やし方で出版された音楽本をいろいろ体験しているから、この本の分厚さにだって最初は疑ってかかった。音楽本なんてまず売れるわけがない。特に翻訳本なんて大変だ。版元のリットーさんはどういう考えでやってるのかは知らないけれども、日本語版を出版するということは、編集者か翻訳者の愛情と、多少の版元の金銭的な余裕がうまいこと噛み合うってことに賭けるしかない。そしてこの本は、本当にうまく噛み合ってよかったと思う。考えてみりゃ好きな人は原書で読むほどの本だし、訳して大きく外しはしませんよっていう固いところだったのかもしれないが。
この本は、1970年代のヒップホップカルチャー発祥から2001年までの歴史を総括している…と言うと普通なんだなこれが。今『カルチャー』って書いたんだけど日本語で言ったら文化であって、その文化を総括しようとしたら並大抵の仕事ではないことが分かろうというもの。本書が焦点をあてているのはもちろん音楽だけの話ではない。ヒップホップの4大要素(DJ、ラップ、Bボーイング、グラフィティ)が当時の政治的状況と相俟って、どのようにブロンクスの外側に出て、グローバルなビジネスとなっていったか、その過程を膨大な文献とインタビューをもとにして本当に細かく追っている。
ずいぶん昔にシンゴ02がレビューしていて、改めてこの人の文才には惚れ惚れしますなあ。
以下が本書の目次。あまりに感動したので、ちょっとこれから章ごとに感想文でも書いてみようかなと思った次第でして。
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